学者の翻訳について、少し考えてみた

 ネットで調べてみると、学者の翻訳の悪口は結構多い。プロの翻訳家さんによる批判も目につく。
 で、へそ曲がりの自分は、少し考えてみた。なんで、こんなに評判の悪い学者の翻訳が、昔から存続しているのか、と。
 思うに、売れる(と予想される)本なら、そんな学者さんなんかに頼まない。ネットでさかんに、自分がプロだと主張する「大家(たいか、と読む。おおや、ではない)」に頼んで、こなれた文章にしてもらうでしょう。
 しかし、たとえば今回の「大英帝国の伝説」みたいな本はどうか。基本的には翻訳本は不要だろう。研究者は原書を読むだろうし、一般人が翻訳を心待ちにするような本ではない。わたし自身、図書館で見つけたから、手にとってみたけれど、翻訳が悪いからといって、1万円以上する原書を取り寄せて、テキスト照合しようとまでは思わない。
 しかし、翻訳が売れセンのベストセラー(鍼医堀田さんの話、とか(by立川志らく))ばかりになったらつまらない。こういう「誰が読むんだ?」系の本、10万人に1人くらいが読むであろう本の数が、その国の文化水準を示すのだと思う。いまや悪訳・誤訳の宝庫とされる「岩波文庫」だが、あれがあるから、多くの読み捨て文庫シリーズがあっても、読書する意味があるし、文化が継承されるということもあるのだと思う。

 そんなことを考えて、ほんの少しだけ、「学者の翻訳」も許してあげたくなった。