不思議なこと

以前から不思議というか違和感を覚える、というか考えていたことがある。

「政治=人事」と勘違いしている場合が多すぎないか。

最近、これを実感したのが例の防衛局長の不適切発言をめぐっての話。その前の話題だった(というか、今だってずっと続いている重大な話題)TPPについては、はっきりした見解を打ち出せない、あるいは考えていない人々が、防衛省の「責任」については、非常に元気いっぱいに「○○のクビをとれ」と張り切っている。防衛局長のオフレコ発言の下品さはともかく、彼のような発想をする人間がいるのは周知の事実で、そうした問題は指摘され、批判されなければならないことまでは理解できる。しかしほんの数ヶ月前に「素人」として大臣になった人物や、直接の発言者でもない幹部連中の辞任を求めることに、どのような実質的メリットがあるのだろう。見せしめ人事のせいで、また事務処理が停滞するだけなのではないか。部下の不祥事で、トップが辞任しなければならない場合がないとまでは言わない。しかし、それはあくまで例外であり、トップは不適切な言動をとった部下を懲戒、解任し、事態の再発を防ぐことで責任を果たせるのではないだろうか。ただ辞めさせればいい、それが政治的勝利だというのは愚かな大衆民主主義的見世物であって、まともな政治家のやることではない。ましてやトップの辞任による免責(事態のうやむやな終息)は絶対許されないと思う。「一死大罪を謝す」は、もはや組織としての未来が否定されていた状況下における武人の責任のとりかたであった。大臣を辞任するだけで、議員を辞めさせるわけでもない騒ぎと同列に論じられるものではない。
トップが一番つらいのは、事態が錯綜して手の下しようもないときに、トップにとどまらなければならない場合である。辞めるほうが余程ラクな場合が多いのだ。

みなもと太郎の「風雲児たち」という大長編漫画がある。その初めのほうの主人公のひとり。林子平が京都の公家を訪ねて、政治の話題を求めると、彼らが重大事として示したのは「尊号」問題だった。当時の光格天皇(だった、と思う)の父親は天皇ではなかったが、彼に対して上皇((太上天皇)の尊号を送るべきか否か、という問題である。林子平の問題意識は、鎖国下の日本に迫る列強にどのように対峙するかであったから、およそ「政治問題」として議論がかみ合わず、ずっこける(死語)ことになった。

今、議論しなければならないのは人事でも政権交代でもない。日本が近未来において、環太平洋合衆国の一員となるような道筋をたどりそうなとき、その選択について考えなければならないのだ。あるいは東日本大震災からの復興と、日本の未来を語らなければならないのだ。

政治家は選挙に勝たなければならないから仕方がない部分もあろう。しかし、マスコミよ新聞よ。いいかげんに、人事を語ることが政治だとの論調の愚劣さを指摘すべきではないのか。