映画「十戒」(1956年版)を観て

 BSのアカデミー賞関連の特集で再見したのですが、初見のときと印象が全然違いました。初見は十代か二十代初で、テレビの吹き替え版だったような気がします。当時のわたしは単純だったから、映画を観るときは主人公に感情移入してしまい、モーゼの視点からしか観てませんでした。もっと言えば、聖書の視点すなわちユダヤ=善、エジプト=悪みたいな先入観で観ていました。さらに当時の感覚でチャールトン・ヘストン=主人公=正しい、みたいな感覚です。当然、映画の印象は「神は偉大なり」とか「偶像崇拝者は亡ぶべし」ってとこです。

 で、今回、どう違って見えたか、というと。まず、エジプトで奴隷生活をさせられているユダヤ人には同情する。しかしそれは決してユダヤ人が奴隷生活をさせられているからではなく、奴隷制一般に対する憤りであり、同情なのです。そして映画の中でも奴隷制は神の意思に反するという形で、モーゼに主張させています。だからユル・ブリナーが悪い奴に見えるのです。

 でもストーリーはあくまでユダヤ人中心というかアブラハムの神中心で進みます。そこには人間の倫理観なんか考慮されません。だから悪い支配者がファラオだというだけで、エジプト人の長男が殺されます。またモーゼを愛し、侍女を殺してまで彼を守ろうとしたネフレタリ(アン・バクスター)の気持ちも当然踏みにじられます。彼女の息子まで殺されます。モーゼは同じエジプト人により命を助けられたのに。またエジプトを脱出する際に、蜜と乳の流れる地を約束してユダヤ人を連れ出したのに、カナンの地には入れず、十戒を授けるまで40日間も放置された彼らの行為が不信仰だといって、一部をその場で殺してしまいます。紅海でエジプト人兵士を皆殺しにする場面だって、よく考えればファラオを先に殺してしまえば、兵士は死ななくたってすんだはずではありませんか。もっと言えば、エジプト人の長男を無差別に殺すというテロがなければ、兵士だってユダヤ人に復讐を願わなかったでしょう。

 要するに、あの映画を観て考えたのは「なるほど、一神教というのは恐ろしいものだ。神の名のもとにどのような残虐非道も正当化されうる」ということでした。イスラム教も同じ神を信仰しているのです。テロの応酬が止まらない理由のひとつに、一神教に基礎をもつ彼らの意識があるのではないでしょうか。

 ただすごいなと思ったのは、映画全体のつくりがしっかりしているから、アン・バクスターの立場からでも、ユル・ブリナーの立場からでも、あるいはエドワード・G・ロビンソンの立場からでも、これを味わう、考えることができるということでした。決して単純な宗教映画になっていません。ネフレタリの哀しみを主題にした映画としても成立しているのです。あるいはモーゼの傲慢さを告発した映画としても成立しているのです。