少し態勢を立て直す

 一度は辞めたはずの会社に戻って居座ったが、もうどうしようもない状況である。この就職難の時代だから、ひたすら忍、ということだ。
 中古住宅にはまだ転居できない。頼んだ職人が、それぞれ勝手な都合を言い、また家内の両親が娘と一緒になって、家をいじりまわしている間に半年が過ぎてしまった。当然、それまでの住まいを事務所として開業する予定も止まったまま。

 こんな調子で、会社でも家でも我慢をしていたら、慢性じんましんが再発してしまった。

 イライラしていると本も読めなくなるもので、例のゴシック小説はともかく、まともな本を読み切れないまま、図書館に返却することも増えた。まあ読み切れないのには、考え方が自分に合わず、途中でうんざりしたということもあるのだけれど。

 こんな状態なので、逆に法律書なぞはじっくりと読み直す時間がとれる。実は勤務時間内だが。もうアクセクと資金繰りに奇策を弄したり、飛び回ったりしない。それはもはや、自分の仕事ではない。裁判と法律手続き、文書の作成くらいしかしていないから、時間だけはあるのだ。その代わり、給料は他の従業員より、さらに遅配だが。もっとも会社の資金繰りに多少の金を融通してやっているから、卑屈になることもない。とはいえ、会社を早退したりすれば遅配を正当化しかねない経営者だから、居座って法律書を読んでいるのだ。ただ刑法総論は、会社法務とはちと遠いと自分でも思うが。

 翻って見て、家を買って以来、この半年はバタバタと過ぎていった感が強い。たしかに他人の言動に振り回されたことが主因だが、しかし、自分自身も見失ってしまっていた気がする。小説を書く、という目標は悪くない。でも先月、偶然に高校時代の国語の恩師に再会したときに、彼にほめられた習作を思い出し、もはやあんな作品を書けなくなっている自分を再自覚した。それでも「書く」とは、現在の自分にとって、どういう意味をもつのか。懸賞金と多少の名声(司法試験合格の代替か)が欲しい、そんなつもりで書き始めて、納得する作品を残せるのか。現に、今の人気作家が書いている新聞小説にあきれ、途中で読むことを放棄してしまっているではないか。あんなものを自分で書くことに意味があるのか。

 転居を1ヶ月以内に終え、改めて、自分の後半生を展望してみたいと思っている。