壁一面の書棚

ようやく中古住宅の手入れが軌道に乗り始めた。
日頃、道理が分かっているように見える人が、主のいなくなった動産に興味を示し、欲を出す。下品だと思う。

わたしは自分の家が持てた喜びの反面、かつて憧れた壁一面の書棚とか落ち着いた書斎などに興味を失っている自分に少し驚いている。欲しくなくなっている。

中年から初老になり、目が弱くなってきて、読書量が落ちている。そんな状態で読みもしない本で部屋を狭くしたいとは思えなくなってきた。それよりは、たとえば谷啓さんの「美の壺」に出てくる座敷と縁側に憧れている。そこで図書館で借りてきた本を広げて、ゆっくり読めれば幸せだ。読み終わったら、また返せばよい。収納場所で悩むこともない。

たしかに自分の蔵書は珍奇なものが少なくない。公立図書館には収蔵されていないものも多い。しかし、それらを並べて友人・知人に見せて鼻をうごめかす時期も過ぎた気がする。ここ数年は段ボール箱にしまったまま、しみのすみかになりつつあった。それで別段不自由でもなかった。作家でもない限り、資料なんか大量に抱えている必要はないし、ネット利用は個人のデータベースの価値を相対的に下げたといえる。

もっともコレクター癖自体は、残っている。珍品には食指が動き、それを所有したくなる。しかしそれでも明窓浄机にあこがれる。

思えば、わたしの子供の頃、家にはほとんど本はなかった。わたしが字をおぼえ、小学校に上がる頃、父が「小学一年生」の「3月号」を買ってきた。本来なら4月号を待つべきだったのが、父はそんな「お約束」を知らない人だった。それ以来、わたしの家は、わたしのために買いそろえた「世界名作文学」やら「原色百科事典」があふれ、書棚はいつも足りない状態だった。それでも私は私家版の図書室や文庫にあこがれ、本を買い続けた、親の資金で。

大学生になり、4年を過ごして帰郷する際には、本の段ボールが上京時の数倍になっていた。

ところが40過ぎくらいになって、本を読んでいない自分に気がついた。もちろん蔵書はある。しかしそれらの収納は部屋の限界を超えており、半分以上が段ボールから出すことがない状態だった。そうなると、本当に読むのかどうかわからないような本を買ってくることが億劫になってくる。それに購入資金は自分の人生を切り売りして作った金である。本の購入を吟味するようになり、その結果として、新しい本を読めなくなっていたのだ。

例の病気以来、公立図書館の利用が飛躍的に増えた。県立、市立、公民館付属図書室。これらを利用するようになり、読みたいけど、金を出してまで読みたくはない、という本を読めるようになった。
そして図書館で借りたことが縁となり、逆に購入するようになった類の本も出てきた。スティグリッツの経済学の教科書などは、赤鉛筆で線をひきたい欲求から、自分で購入してしまった。

でも、私家版の図書室を欲しいとまでは思わない。ただちょっと立ち止まると、ささやかな文庫くらいは出来てくることになるかもしれない、明窓浄机を壊さない限度で。