議論好きなインド人(1)

 標題の本を読んでいます。ぶ厚い本であり、最近の私の読書スピード(10頁/日)では、なかなか読みきれません。それでも最初のまとまり部分を読みきりました。
 そこまでの部分をまとめると、従来の西欧のインド観や、逆にインド国内のヒンドゥー至上主義に対する反論が内容の中心です。そこで展開される具体的な人物名を含めての反論は迫力がありますが、悲しいかな、わたしにはどれも初めて聞くに等しい程度の名前ばかり。改めて、インドのことを知らないのだなあ、と実感します。
 インド(亜大陸という表現が使われます)の面白さは、ひとつの文化と思えないほど多種多様な内容でありながら、それでもインド文化というひとつの文化と呼ぶべき連続性・統一性が認められる点です。
特に理解を超えるのは、無神論ですら、ヒンドゥー教の一派の主張として理解されることです。なんじゃ、そりゃ。
 また民主主義的な慣習や思想の自由なども、古代から存在しており、仏教結集のアショカ王ムガールのアクバル大帝の例などをひいて、それを論証しています。決して異端を排除しない文化なのです。

 ではわたしがTVなどで見聞する「インド」は嘘なのか。そうではないところに、亜大陸の広さ、深さがあるようです。前に読んだインド人ビジネスマンの日記にもあったように、不合理なカーストも「文化」の内容として厳に存在しています。これも「排除」されないのです。

 島国日本人のわたしとしては、両立し得ない文化、価値観がひとつの文化を構成することはなかなか納得できませんが、よくよく現実を考えれば、そんな例は身近にもたくさんある。「進歩的」文化人が、実は男尊女卑主義者などという例は、ちょっと前には当たり前に存在しました。日本人の和を尊ぶ伝統も、裏を返せば、すぐに全体主義的統制に変質してしまいます。

 ただ、そんな場合でも日本人ならその相反する文化につき、正邪・善悪などの区別をつけずにはいられませんが、なにせ無神論をも包含した宗教観を持つ文化では、お互いに相手と異なることは認識しても、共存不能(不倶戴天)とはならないはずなのです。

 ところがイギリスの植民地支配を離れ、民族のアイデンティティを模索した結果なのか、狭い(小さな)インド観をインド人自身が抱く現象が生じています。それが宗教テロの形をとって現れています。その原因のひとつが、ヒンドゥー至上主義にあり、それはインド文化の実相に対して、明白に間違っているというのが著者の主張のようです。

 この先、さらに読み進んでいきますが、未知の惑星探検のような興奮がある読書です。

議論好きなインド人

議論好きなインド人