民主主義と自由主義

 このところ、経済学わけてもクルーグマンスティグリッツの入門書や、一般向け啓蒙書の類を読んでいます。

 世間が強欲資本主義と呼ぶ、サブプライムローン問題や、ちょっと前に問題になったデリバティブ取引、さらには「経済のグローバル化」の正体などを、自分なりに理解したいと思うからです。

 ところで、信じ難いことにわたしは学生時代に憲法ゼミの一員でした。その名残で、民主主義と自由主義(人権)の対立などという観念に敏感なほうである(という自覚があります)。
「民主主義と人権」というのは、だいたい御神酒徳利みたいなもので、両者が対立するなどということは、善良な人間には思いつかない。だって第二次世界大戦後、アメリカが日本に民主主義を持ち込んだ結果、基本的人権の保障が認められたのではないですか?と怒り出す人もいたりする。

 たしかに国会(議会)で民主主義的討論を行い、議決された法律が、まさか人権を抑圧するなんて、考えられない。人権抑圧・侵害なんてショッカーの大首領みたいな悪人以外、そんなことを目指さないよ!!

 でも実際は、多数決に対して反対した人間がいて、多くの場合、「決まったことには従え」とか言われて、多数意見に従わされる。でも、その多数決で決められた「きまり」が、あなたの個人財産を一切認めない、とか職業選択や居住地選択の自由を否定するものだったら、どうか。そんなきまりは人権を害するから憲法違反だ、と反発したくなるよね、当然。ここで憲法が出てくるわけだ。つまり基本的人権の保障というのは、民主主義的横暴に対するストッパーのためにある、ということ、言い換えれば、そのために憲法の人権カタログはあるのだ、ということです。ちなみに多数派により構成される国家機関として国会・内閣があり、そういうものに歯止めをかけて少数派を守るために裁判所がある。これが「法の支配」であり、憲法保障という考え方です。そこでは民主主義と人権は、対立することも想定されている。

 もっとも日本では、故アシベ教授やその先代ともいえる故宮沢博士などは、人権保障を包含しない民主主義は、本当の民主主義ではない。民主主義とは価値中立の手続ではなく、一定の価値を前提あるいは基礎として認められるのだ、と主張されています。これもごもっともで、たとえば某独裁国などで、投票の結果、100%の支持率だったという場合、それが民主的投票だったと考える人はいないでしょう。

 ただ「民主主義」という概念は「多数決万能主義」に容易に変質する危険があり、その結果は個人や少数派にとって、必ずしも正義ということにならないということは忘れてはならない、と思います。

 で、強欲資本主義なんですけどね。これってどっちの問題なんでしょうかねえ。基本的に金儲けの自由は人権だから、自由の濫用ということになるんでしょうね。いくら個人の権利でも、他人を害するところまでは認められない、とか。そのために民主的にルールを作成したりする。すると連邦最高裁憲法違反だといったりする。そしたら裁判官の定員を増やして、法案賛成派を多数にする。これはF.ルーズベルトが実際にやったことなんですけど。

 わたしが思うには、経済的自由(営業の自由や契約自由など)の行き過ぎの問題ではありますが、むしろ形式的民主主義(多数決万能主義)がファシズムと化す過程に似ているような気がします。
というのもファシズムも、単に、国民がアホで多数決万能から独裁者選出まで走ったのではなく、「一定の価値感(主義思想)の絶対化」という触媒がなければ成立し得なかったのであり、同様に「金儲け至上主義の絶対化」という思想があって、強欲資本主義が成立したのだと思います。金儲けこそ正義だとすれば、そのためにホームレスの発生はおろか、異教徒どもが何万人死んでも、それは一切、悩むべき問題ではない、ということになります。

 やっぱりいつもと同じ結論にたどりついてしまいそうです。凝り固まった信念は、たとえそれが正義だとしても危ない、ということです。

 というわけで今週の読書はこれ。予想外に読みやすい翻訳です。先日紹介した出版元と同じとは思えないほどです。

政治・哲学・恐怖―ハンナ・アレントの思想 (叢書・ウニベルシタス)

政治・哲学・恐怖―ハンナ・アレントの思想 (叢書・ウニベルシタス)