経済危機とコムロのこと

 「金融工学」という単語のいかがわしさ。「新商品」「新ビジネスモデル」と「脱法行為」の違い。

 「花見酒」(循環取引)は、一般人にとっては笑い話なのに、金融関係者や一部のベンチャー起業家にとっては、基本原理らしいこと。

 人間が、食わなければならない生物である以上、つきつめれば農本主義になってしまう。それを認めながら、文化の名にかけて克服するところに経済学成立の鍵がある。

 なのに多くの人間が、食料や生活必需品より、貨幣そのものが重要だと思い込んでしまった。農本主義を克服するのではなく、それを無視してしまった。究極的に人間の生を支えない「生産」は、真の「生産」とはいえない。生産に裏打ちされない「富」は、虚構にすぎないのだ。

 ズボンのポケットの中の紙片が、さっき本屋でもらったレシートなのか、それともおつりの紙幣なのか、ちょっと指先で触れただけでは区別がつかない。そんな紙片にたより、さらに株価にたより、信託投資にたより、気がつけば大損をしたような気分になる。しかし食い物が収穫でき、ねぐらや衣服が間に合うなら、そんなにあわてることはない。

 経済上の損失なんて、そういう「仕組み」にすぎない。実体は、昨日と変わっていなかったりする。

 実体経済とか実物経済とか、そもそもそんな言葉を頭に載せなければ意味をなさない経済なんかより、米の出来高を心配しなければならない。

 コムロ某は、刑法の力を借りなければ、以上が理解できなかったのか。彼は、今後、生物としての最低基準を満たす生活がどのようなものであるかを身をもって会得し、彼を刑務所に送り込んだ「文化」「資産」が虚構であることに気がつくのだろうか。