カーストのこと

 「喪失の国、日本」という本を読みました。数年前に出た本で、一部では評判になった本のようです。

喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 (文春文庫)

喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 (文春文庫)

 今さらながら、それを読んだ感想を書いても仕方がないとも思いますが、カーストについて考えた点があるので書いてみます。
 驚いたのは、たとえば机から書類が床に落ちた場合、それが会社という営利組織内であっても、それを直接に拾ってはならないこと。それを拾うカーストの人間を呼んで拾わせるべきだというのが、少なくとも10年前頃のインドでは常識だったらしいことです。同じように、人前で歌を歌うことさえ、そのような芸人カーストと思われるから、歌わないということも、ずいぶん不自由だなあ、と思います(もっとも後者については、日本だって、カラオケ登場前は、人前で歌謡曲を歌うような人は、少なくとも成人の間では少数派だったといえるのではないか、と思いますが。)。

 カーストの細分化については、江戸城勤めの武士たちのお役目の細分化を思い出させます。平和な時代で仕事がないから、かんたんな仕事を何段階にも分けて、しかも、それを他人には絶対に渡さない。逆にいえば、他の人はその仕事に手を出してはならない。

 カーストも当初は、そのような役割分担だったのではないでしょうか。社会の分業化が完璧なら、"無駄な"闘争は起こらない以上、分割統治は有効な統治策ですから。
 ところが、分業化を維持するためには、世襲により、それを固定する必要が生じます。機能的な分業から不合理な身分制への変質です。すなわち、他人の職分を冒してはならない、というルールだったのが、その職分に尊卑が生じ、そのような卑しい作業をするのは恥だという考え方が生まれたのではないでしょうか。

 以上は全くの空想です。

 驚きは、日本に派遣されたエリート(当然、近代的開明思想をも認識している)である著者でさえ、そのようなカーストを所与のものとして受け入れている点です。また、彼が菜食主義であり、基本的に酒も飲まないことも、自らの出自カーストに対する誇りがうかがわれます。

 実は、先日「踊るマハラジャ、NYへ行く」という映画をTVで観ました。インド映画ではありません。欧米で作られた、アメリカ映画とインド映画のパロディのような娯楽作品です。そこには、欧米人のインドに対する偏見が描かれ、同時にそれが嘲笑われていて、不思議な魅力がありました。
その映画の中で出てくる、ニューヨーク在住の貧しいインド人たちは、当然のようにビールを飲み、また性に対しても解放的であり、ダンスや俳優などの芸能に対して偏見がありません。つくりもの、といったらそれまでなんでしょうが、それこそカーストの違いを感じました。

 日本人の私からみて、落ちた書類すら拾わない、それを拾うカーストを肯定している文化は異様です。前回の宗教の害と同様、独自の文化だからといって、何がなんでも保護すべきではないという例だと思います。