宗教について

 町山智浩さんの新刊「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」を読んで考えたこと。

 「信心深い」ということの、現代社会における意義はどうなのか。

 この本の中で、アメリカの福音主義者たちの愚かさが徹底的に指摘され、批判され、嘲笑されている。
まったく次元の違う話ではあるが、イスラム原理主義者などの狂信ぶりも、驚かれ、あきれられることも多い。
他国の話ではなく、わが日本でも、つい半世紀前までは国家神道の下、狂信者としか呼べない人々がいた。

 このような事例において、宗教・信仰は、「理性の敵」とも思える。
現代が近代以来の「理性の時代」とするならば、「信心深い」ことは、理性に反する行為・属性ということで、現代社会において意義が認められないことになりかねない。
もっとも「理性の時代」という考え方が、多数の人々を疎外する根本原因という考え方もある。
それに「狂信者」イコール「信心深さ」という図式は、余りに乱暴かもしれない。

 ひとつの説明は、自らの信条・信念を「神」の名の下に、絶対視して、それを他人に押し付け、あてはめる行為が悪いのであって、それは信心とは、直接の関係はない、というものだ。
たとえば「妊娠中絶は絶対に許されない」とか「同性愛はいけない」との信念をもつことは勝手だが、それに賛成しない人間を、神や宗教の名の下に非難したり、攻撃するのは、単なる思想統制であって宗教活動ではない、という考え方だ。

 しかし、宗教というのは、そもそも物分りの悪いものではなかったか。さまざまな不合理な教えやタブーを課してくるものなのではないか。だとすれば、程度の差はあるにしても、熱心な信者が他人の行為に干渉したり、それを非難・批判するのは当然だし、またキリスト教イスラム教の場合、異教徒を蔑視したり迫害するのは、むしろ教えに忠実ともいえるのではないか。

 わたしは、神を信じたい人間である。つらいことや不条理な出来事に対面したとき、「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテビエのように、神に話しかけることがある。
「神様、世の中がこんなだということは、今わかったわけじゃありませんが、でももう少し、お手柔らかであってもよくありませんか。また、試験に落ちましたぜ。いやよくわかっています、あんな試験に受かって、人を裁く職業につく連中は、死んでから貴方様に裁かれることになるわけだから、むしろ落ちたことを喜ぶべきだって。でもねえ・・」
という具合である。
 しかし、やはり現世のしくみに関しては宗教を持ち出すべきじゃない。その意味で、度を過ぎた「信心深さ」は、やはり悪徳というべきではないか。

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない (Bunshun Paperbacks)