法事が続く

 一昨年から葬式が続いたこともあり、今年は法事が多い。一周忌に三回忌、新盆や新彼岸などもあったところにきて、十七回忌、二十三回忌まである。その他に、通例の盆暮れ彼岸のお寺参りが入るので、しょっちゅう、坊様と話している気もする。

 以前は、法事後の足の「しびれ治し」代わりに、といって、法話をしてくれたものだが、椅子席に替わった現在でも、5分程度の法話をしてくれる。内容は、釈迦の教えとは相反するような世間智が多いが、そんなことを言えば、こうした法事自体がお釈迦さまとは無関係ともいえるわけだから、まあ仕方がない。

 お経も毎回聞く中で、たとえば葬式のときに聞く中には「僧を敬え」と命じている文句が聞き取れたりする。なんというお経だか知らないが、露骨だよね。敬うのは心の問題だけど、それを敬う相手に示す必要があるわけで。もちろん、敬う以上、言われなくても自然の人情の発露として、当然お布施するのだ、ということなんだろうけど。

 いろんな宗派の法事で、般若心経を唱える。経文を配り、唱和させる坊様もいらっしゃる。経文を見ながらだと、つい読み上げたくなるけど、フリガナにしたがって歌うように唱えなければならない。ナントカカントカア〜ア〜、と妙に引っ張る坊様もいる。これもオマジナイ、呪文のたぐいでしょうね。

 世襲議員のところで、実は、「我が国の象徴だって世襲なんだから仕方がない」という理屈を考えた。世襲による統治なんて現代文化とはいえない、と思うけど、たとえば葬式ひとつとっても、古代のオマジナイが必要とされている。

 人間なんて100年はおろか1000年2000年かけても、そんなに本質は変わらない、ということかもしれない。