嫌な言葉

 NETでニュースにコメント機能がついているものがある。殺人事件や著名事件などで、それらを読む機会が増えた。

 「生かしておいてはならない」

 なんて嫌な言葉だろう。


 こんな言葉遣いを好んでするのは若者、と相場が決まっていた。昭和初期の青年将校やテロリストたちを思い起こす。

 しかし多くの実例において、生かしておいたほうが良かったのである。生きている限り、過ちは償うことができる。たしかに死んだ人は生き返らないから、殺人犯人に死刑を求める気持ちはある。しかし、生かしておいてはならない、場合なんか存在しない。


 「税金のむだづかいだ」

 官僚や政治家の横領的行為のような、本当の無駄遣いに対してなら、別に問題ではない。しかし死刑執行が延期されている受刑者の処遇に対して、その人間が生きていることに対して、この言葉を使う感覚を憎む。


 死刑制度反対には、冤罪の可能性を否定できない等の理由から、とする相対的立場と、国家が私人を殺すことに反対する、いわば絶対的立場がある。

 さらに前者には犯罪的行為自体の実行があったとしても、それに対する刑罰としての死刑がふさわしくない場合も含める立場がある。たとえば「わたしは貝になりたい」の主人公の処刑、をどう考えるか。犯罪論で言えば、期待可能性がなかった、とか緊急避難が認められる結果、犯罪不成立。よって広義の冤罪と考えることもできよう。

 しかし、広義の冤罪にも該当しない場合であっても、必ずしもその人間を処刑しなければならないのか。同じ行為に対して死刑という刑罰が選択肢に存在しない国家や文化が、現代の地球上にいくらもある。必ず殺さなければならないのか。

 わたしは死刑制度を廃止すべきとまでは思わない。しかし判決確定後、もはや社会から隔離され、他者を害する危険を除去された段階で、改めて死刑執行の決断をすべきだと思う。その際に、

法治国家だから」

という形式的理由で、人命を奪うことを当然視してはならない、と思う。

 戦争では、法により、犯罪を犯していない敵国人の生命を奪うことが正当化されるのだ。だが、殺し、殺されるべき兵士にとって、法は凶器にほかならない。法なんてそんなものだ。それは我が国の立法機関を見れば、その構成員を見れば明らかだろう。あいつらがつくるんだぜ。

 法治主義なんて、機能概念に過ぎない。それがないと、あいつらは無差別に国民を殺しかねない。現に税金や社会保険料滞納で会社をつぶされて自殺に追い込まれる経営者は少なくない。法律で規制がないから、自殺せざるを得ない状況に追い込めるのだ。

 法治主義はやってはいけないことを決めるものなのだ。別に処刑しなくても問題が生じないなら、執行なんかしなくてよい。だからこそ、いちいち執行の有無を報ずるのは妥当ではない。死刑判決が確定した。その時点で、被告人は社会的には「死んだ」のである。その執行をいちいち報道するのは、かの国の公開処刑と同じではないか。

 しかし人の死を見世物として楽しむ人間に、人を裁く資格があるのか。