常用漢字について

 わたしの叔父が地元の大きな書店に勤めていたせいか、彼の成績向上に協力するためもあり、たくさんの全集ものや百科事典、学習雑誌を、わたしの親は買い与えてくれた。そのせいだと思うが、小学校の頃から字を読む苦労はほとんど記憶がない。おそらく小学校卒業時に平均的高校生くらいの識字率と語彙をもっていたと思う。

 だから常用漢字とか、その前の当用漢字とかの漢字制限は、今ひとつ理解できない。読める奴はたいてい読めるし、読めない奴は小学校レベルで読めなくなる。個人差があってもいいのだ、と思う。みんなで無知無教養のレベルに合わせる必要はないし、えてして無教養な奴ほど画数の多い字を使いたがるという逆転現象さえある位だから。どうして、偉い先生が誰も守らないようなルールをつくる必要があるのだろう。

 今回の常用漢字付け加えの候補に、都道府県名で使われる文字が入っていたり、あるいは「藤」の字が入っていて、逆に今までそれらが入っていなかったアホらしさ加減に、思わず「ここにも馬鹿がいる」とつぶやいてしまう。「藤」に関しては、日本の姓で「佐藤」「加藤」「藤原」「遠藤」「近藤」などなど枚挙に暇がない程使われる文字ではないか。もしこの字を知らない日本人がいたとして、まともな社会生活を送れないよ。

 さらに漢字の送り仮名の規制もナンセンスな気がする。
 
 たとえば、「行った」について。
 たしか変化しない部分がどーたら、とかの小理屈をつけていたと思うが、はたして読めますか?「行った」

 正解は文脈に即して「おこなった」でも「いった」でもよいとされている。しかしこれは、書き手が「おこなった」と読ませたければ「行なった」と送ればいいだけの話で、送り仮名なんて、しょせん漢文を読む上の道具として発達した便法に過ぎない以上、過剰な思い入れ・文法解釈はかえってその機能を阻害することになる。

 でも学校で「行なった」と書くと「×」らしいよ。国語審議会だかなんだかの無知蒙昧な連中の差し金らしい。

 明治時代以前の文章を読んでいて、その自由な文字の使い方に感動してしまう。今だったら、当て字とか誤字とされてしまう用法を大家が堂々と使っている。その中で、みんなが納得した用法がだんだん残っていくのだと思う。

 常用漢字なんてさあ、恥ずかしいからやめちゃえば?