裁判、アメリカ哲学

 2月12日に、当地の地裁で裁判が1件。うちの会社が原告で、当日は被告に対する当事者質問。弁護士の都合がつかなくなり、急遽、本人出席ということで社長が原告席に。被告側は当初から本人だけ。まあ、まともな弁護士なら絶対に受任しない事件だと思うけど。今までのところ、被告側に反論らしい反論はないので、こちらも、うちのボンクラ社長で問題はない。それでも、その日の法廷は漫才のようで、笑える状況でした。傍聴人はわたし1人、ほかに修習生が3人。彼らも本人訴訟の珍妙さ、大変さを実感したでしょう。内容を書きたいけど、さすがに裁判中はマズイので、後日書いてみたい、と思う。

 いきつけの書店で「アメリカ哲学」という本を目にして興味を覚える。

 思えば「プラグマティズム」の内容も知らず、軽視してきた気がする。高校や大学で、インテリの友人と話す中でプラグマティズム自体を話題にしたことはなかった、と思う。

 去年、この日記中で、不用意に「総括」という単語を使ってしまい、小田実氏が中心にいたと思われる「ベ平連」を揶揄するかの印象を与える文章をかいてしまった。そこにつけられたコメントは、事実上、このブログに対する初のコメントであり、短かったが、実に真剣に、パブリックスペースで発言する覚悟をさせてくれたものである。鶴見俊輔氏も、小田実氏と近い関係にあった人と認識している。
 わたしは、いわゆる新左翼運動が後退した後の大学入学者であったが、学内の雰囲気はまだ、政治の季節の名残があった。そして主流は、やはり「革新」、反体制派だった。ただ、今日の改憲潮流につながる感覚は、われわれの中に芽生えつつあったと思う。「言うほど単純な図式ではない」という思いが生まれ始めていた。
 小田氏の書かれた岩波新書で、入国管理事務所のエピソードがあり、高校生だったわたしは感動した。そこで氏は、悪いのはそこの担当官(個人名)だ、と言い切っていた。それまで「制度が悪い。しかし制度は利益考量の末に設けられている以上、対立利益も無視できない」と無限に責任が展開していき、結局現実の問題を打破できない、という壁にぶつかっていたわたしにとって、まさに天啓のような論理だった。
 今でも時々、その論理を使って考える。自分らの怠慢に起因する多くの現実的問題を、制度や構造の問題にすりかえようとする人は多い。だから依然として、この論理は有効だと思う。
 思うがしかし「それだけではない」。そんな単純な問題ではない場合も、また多いことを知らなければならない。そのような多様な価値の比較衡量をしたり、相対主義をとることは、結局相手の術中にはまることになりやすく、運動論としては有効ではないかもしれない。実際的改革を志す以上、ものわかりがよいことは致命的短所ともいえるだろう。しかし問題の本質が基本構造にある場合、末端のみを、その表象のみを声高にののしるだけでは、かえって自体を膠着化させるだけではないか。小手先で問題を「解決」することは、将来において、より深刻な問題の発生を準備することに他ならない、と思う。その意味で、いかに高踏的な非現実的な議論と罵られても「問題の本質」という議論は避けるべきではない。そしてそれを論じるためには「多様な価値観」を無視してはならないのだ。

 というわけで、アメリカ哲学を読み始めております。なんか印象としては陽明学に似ている気がする。もっとも陽明学を知っているわけでもないところが、わたしの悪いところで・・。