キリストとエジプト

 去年だか今年のはじめだったか、岸田秀が「黒いアテナ」黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ (2〔上〕)を紹介した本(「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」)嘘だらけのヨーロッパ製世界史を読んでいて、エジプト文明が、地中海文明ユダヤ教文明のルーツらしいという議論があることを知った。
 そういえば「黒いアテナ」の推薦文を書いていた小田実も死んでしまったな。高校生だった頃、あの人の本を読んで、袋小路に入った議論の「突破法」を学んだ気がする。その後は、ワンパターンの議論ぶりに、逆に知的不誠実さが感じられて嫌いになったけど。彼とか小中陽太郎とか、ベ平連の歴史が総括されるべき時期かもしれない。
 話をもどす。今回は「キリスト神話」を読んで、さらにイエス=ホルスという議論の存在を知った。

キリスト神話-偶像はいかにして作られたか

キリスト神話-偶像はいかにして作られたか

「キリスト神話」は、アメリカやカナダの真面目なキリスト教徒である一般読者を想定しているらしく、文章がくどくて、かつ内容が断片的という欠点がある。神話がおとぎ話ではない、とか元型論みたいな話を、今更のように重大事のように語られても困る。この本の主張は、イエスは歴史上存在しなかった、ということ及び福音書の内容は、ほとんどエジプト神話からの借り物だということである。それを証明するために、断片的符合を並べている。
 正直に言って、議論のすり替えという気がする。イエスの生涯とか受難については、福音書の成立時期や、すでにイエス=キリスト信仰がある程度広まっていたことから、それが民間信仰として広まっていたであろうエジプト起源の説話と混交されても不思議ではない、と思う。日本の聖徳太子誕生説話(厩戸皇子)が、実はキリストのそれのパクリだという議論があるくらいだから、もともとエジプトから逃亡してきた民族だと自称しているユダヤ人の説話にエジプト神話が入っていない方がおかしい。しかしそれゆえ、イエスの存在自体を否定し、本来は神話中の人物として語られるべき人物を歴史上の存在と誤信したことで、正統キリスト教は、原始キリスト教の持っていた(同時にエジプト神話のモチーフだった)人間一般の霊的復活を、イエス個人の復活信仰にゆがめてしまった、とまで言えるか。
 伝統的なエジプト起源の復活信仰が、なぜ原始キリスト教という形で広まったのか考えたとき、そこにはホルスを投影したくなるような人物がいて、その行動に一時的にせよ救いを見出した、という事実があると考えられないか。
実際は奇跡も復活もなかったろう。しかしその人物は「御神輿」たりうる人物だった筈である。そのような人物の存在なしで、単にエジプト神話をユダヤ的に書き直した福音書が成立したとは考えられない。
 ちなみに、この本の中に出てくる符合については、邦訳のエジプト神話の解説本を見た限りでは、それほど感じ取れなかった。ホルスとイエスの同一というのも、自分には、「そうもいえるね」程度にしか感じられない。
 それより太陽神ラーの機嫌直しに、女神が自らの陰部を見せる話を、エジプト神話の本で発見して喜びました。そうか、アマテラスの岩戸神話がエジプト人に影響したか(冗談です)。