電脳環境は人間の精神を蝕むか

 その昔、わたしが20代の頃にはスプラッタムービー(ビデオ)が与える悪影響が問題になった。連続幼児殺害事件の犯人が、その手のビデオをたくさん収集していたこともあり、ビデオ視聴と犯行の因果関係が論議された。

 今回の連続殺傷事件の犯人については、ゲームにはまりこみ「キレやすい」性格だった、といわれている。「友人」としてマスコミにそういう証言をする者もいる。「ゲーム脳」の問題として指摘されたり、またコンピュータ操作や自動車運転に伴う「全能感」の問題とする見方もあると思う。

 わたしは、初めて「オタク族」と呼ばれた世代の人間である。当時の「オタク族」は近年誤解されるような「自宅にひきこもってコンピュータやビデオ、アニメで遊んでいる」=オタクとは異なっていた。見ず知らずの名前も経歴も知らない同好の士に対して、互いに「お宅は・・」と呼び合っていたことを揶揄されたに過ぎない。それも実は、ビジネスマン同士が「御社」「弊社」という言葉よりも、ややくだけた場合に、相手の会社を「お宅」と呼んでいたことの模倣である。要は、「ボク」「キミ」が子供っぽくて嫌だったから、「社会人」の真似をしていたのだと思う。

 閑話休題。そのようなわたしは、これまでビデオ悪影響説やネット中毒説、ゲーム脳問題説に対して、否定的な考えでいた。それらを楽しんでいる人間のうち、絶対的多数の人間はいわゆる「正常」の領域にとどまっている以上、学校や家庭内の孤独、当人の先天的気質などの難しい問題を、より単純な悪玉のせいにすりかえる議論だと思ってきた。

 しかし現在のわたしは、それほど楽天的な考えではない。殺戮ゲームはもちろん、健全と思われるゲームやネット・携帯電話の使用も含めて、人間の精神性に重大な影響を与えることは否定できない、と思う。

 子供から大人まで、電脳(携帯電話も含めて)のディスプレイを見ている時間が多すぎるのではないか。さらにTV画面も含めてもいいと思う。あるいは周囲の音を遮断して、自分の好きな音楽だけを聴き続けることも似た問題がある。
 とにかく生身の人間との全身を使ったコミュニケーションの機会が絶対的に少ない。その結果、人間同士のわずらわしさからは解放されるものの、これまで人間がつちかってきた社会を構成する有形無形のルールが、自分の外から、自分に無関係に押し付けられてくる異物にしか思えなくなる。そうなれば、その精神世界には自分しか見えないことになる。

 これは根本的な人間精神の変質である。そして、そのような人間が世界のあちこちで増えつづけている。

 わたしは15歳未満の者の携帯メールや電脳ゲームは禁止すべきだと思う。人間社会を維持するためには、生身の人間のふれあいを子供の頃に身につけた人間が大多数でなければならないし、子供時代はそのような人間になるための養成期間のはずだからである。