「司法のしゃべりすぎ」を読んで

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)
 正直言って、反発したんだけれども、論理的な反駁は難しい。文体は挑発的だし、結論は極端だから、たとえば下のような反発もあるのは当然だと思う。

http://www.geocities.jp/humanrightspolicy/book/007.html

ですが、上の書評も焦点がずれている、というか、子供がお互いに「ば〜か」と言い合っている感が否めない。裁判官と大学教授なんですけどね。

 で、わたしが疑問に感じたのは以下のことです。

 「白鳥事件」の例で、結論的には、当該事例が、当該裁判官により定立された具体的規範の要件を満たさない以上、そもそも判決理由中で、規範定立をしてはならない、と井上氏は言っておられる気がするけど、法解釈は多様で、まさにそれゆえに裁判所の判断が必要とされるはず(そうでなければ、自動販売機のような判決マシーンのほうが合理的かつ効率的だし、現に解釈に争いがないような交通違反などでは、さまざまな即決方法がとられていると理解している)。つまり、立法が、具体的規範とされるためには、裁判所の判断が絶対的に必要だ、ということ。すると、当該事例で、再審決定が拒まれたのは、如何なる規範によるものかを説明することが蛇足といえるのか、ということ。抽象的規範の指摘、続いてその解釈による具体的規範の定立、その規範に対するあてはめ、これが法的判断でしょ。それなら、主文の結論を導いた筋道として、むしろ記述するのが正当なのではないか。

 さらに、裁判だって国会だって、要は人間同士が、直接に暴力をもって自分の意思や欲望を実現する社会は嫌だから、みんなででっちあげた制度だということ。井上氏がいうほど、理念に差があるわけじゃない(井上氏はナイーブすぎる)。だから国会が政党中心で個人や絶対的少数派にとって、手の届かないものになっている今、裁判がその政治的アピールの場になることは、言うほど悪いことじゃない、ということ。

 もうひとつ、井上氏の論旨の中で、納得できたのは、判決理由中の判断で「実質的敗訴」とされた人間に上訴のチャンスが与えられないのは由々しき問題だということだけど、その解決策として氏が示している見解は、LRAに反すると思えること。

 こんなところかな。


 井上判事殿
 お忙しくて、蛇足なんか書いている凡庸な同僚にお怒りの気持ちは理解できますが、あなたの主張どおりの裁判所は、制度による「疎外」以外の何者でもない、と思います。季節の代わり目ですので、ご自愛をお祈りします。