法王さまが死んだ日

 確か、標題のような児童文学の短編を読んだ記憶がある。子供がワルサをして、それをごまかすために「法王さまが死んだ」という嘘をつく。翌朝になり、それが嘘とばれても、皆はそれが誤報だったことの喜びで、子供を叱らない、という話だった、と思う。

 わたしがお世話になった弁護士(故人)が、バチカンに旅行に行ってミサに参加したときの法王さまも、ヨハネパウロ2世さまだったのだ、と今さらに気がついた。

 法王さまはペテロの後継者とされる。イエスに実子がいたとしても、それが宗教的後継者となるわけではない。もっとも血縁者の宗教的権威性を否定したのは、バチカンが採用した「聖書」だから、イエス自身の気持ちはわからないが。ただ「神の子」=私生児として生まれたイエスに、血縁絶対視の観念はなかったのではないか、想像するだけだ。あるいは逆に、私生児ゆえに血縁という生物学的関係に固執するとも考えられる。しかし、それではあのキリスト教、いやイエスの教え、現状の不幸を認識し、全身で受け入れた上で、それ以上の不幸を自分たちで作り出す愚を避け、自分たちのパラダイスを、「願う」のではなく、個々の生において「実現させる」教えと相容れない気がする。

 法王さまの死に際して、久しぶりにイエスについて考えてみた。